親縁寺について
親縁寺縁起
親縁寺は時宗 富塚山 雙林院 親縁寺といい時宗の寺院です。
お寺の名前(親縁)の由来ですが唐の善導大師が説いた仏と衆生の「三縁」 親縁(仏と親密になる)・近縁(仏と近くなる)・増上縁(消罪して往生ができる)に由来しており当寺では「しんえん」と読まず「しんねん」と読みます。
写真の富塚山の扁額は富塚の字からみて古いものであり江戸時代、正保(1644~47)のころから戸塚という字を用いるようになったといわれております。
その昔親縁寺は真言宗のお寺でしたが700年ほど前の元応二年(1320)に遊行四世吞海上人が遊行された時、時宗に改宗しそして上人を開基として覚阿和尚が二代目住職となられました。
かつては東海道五十三次の名刹として現在の大阪下、富塚八幡の近くにお寺があったといわれておりますが明和元年(1674)に三十二世智元和尚によって現在の地に本堂を再建しました。
本尊・阿弥陀如来
当山の本尊は、弥陀三尊で高さ約一メートルの木彫りで左右に観音、勢至の脇仏が立った尊像です。
当山三十五世億端和尚が記した「当山寄付記録帳」によりますと「三浦大介守本尊来迎寺よりここに移す」とあり元弘の乱の際、鎌倉・来迎寺にあった本尊が戦禍を避けて当山に移されたものと思われます。
文殊菩薩・大日如来
境内中央左手には文殊菩薩・大日如来が庫裡表庭の主として鎮座しております。 文殊菩薩は宝永五年(1708)天入海法印の作といわれ「為二世安楽」とあり二世安楽の為に制作されたものと読み取れます。
大日如来は、文化五年(1808)に建立されたもので台石に「奉健立大日如来」とあり奥羽(山形県)湯殿山連中の奉献したものと寄付帳に記されております。
日限地蔵
本堂左地蔵堂に安置されているのは日限地蔵尊です。
当縁起によると元禄十六年(1703)遊行四十七世唯称上人の御化益の際、当山にお泊りになったときにお地蔵様が夢枕に立たれたことから、当山の信者金子久右衛門が名工を招き夢に立たれたお姿をご尊像として製作させたものであります。
地蔵大祭と虚子の句
四十九世慶善和尚は昭和六年から毎年地蔵大祭を行い家内安全、商売繁盛、五穀豊穣の大祈祷を本山からお上人を招き盛大に行っておりこの大祭は昭和十六年まで行われました。
茂り中 日限地蔵の 旗つゞく
虚子
これは俳人高浜虚子が昭和八年(虚子五十九歳)、六月二十日当山で行われた鎌倉俳句会にて、美しい陽光を受け風にたなびいている奉納旗を見て即興の句を残されました。
現在、日限地蔵堂の右横に虚子が書いた色紙を写して石碑にしてあります。
時宗について
名称: | 時宗 |
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宗祖: | 証誠大師 一遍上人(智真) |
開宗: | 文永11年(1274) |
総本山: | 清浄光寺(遊行寺)- 神奈川県藤沢市 |
本尊: | 阿弥陀仏(阿弥陀如来) |
経典: | 浄土三部経(「無量寿経」・「観無量寿経」・「阿弥陀経」)をより所にします。読経ではそのほか「六時礼賛」などもお読みします |
時宗の由来
浄土教の祖師である善導大師が自らの門弟を「時衆」と呼んだことに由来しており一日24時間を6分割して行う勤行(六時礼賛)などを行って交代要員の人数と時間は定められていました。
その要員が時衆です。 「時衆」は本来個々の僧尼を示す言葉ですが、他教団が使わなくなり、一遍上人の時衆だけが使用するようになって、教団の名称として通用するようになりました。
江戸時代に入ると「衆」が「宗」に代わり、「時宗」が宗派の名として確定されます。
そのため、一遍上人を祖とする僧尼衆を表すときに、江戸時代より前の場合は「時衆」、江戸時代以降は「時宗」と呼びます。